電子デバイス産業新聞は、半導体、一般電子部品、製造装置、電子材料業界を報道する専門紙。電子ディスプレー、各種電池、プリント回路などの市場動向に加え、自動車や医療、ロボット、fa、航空・宇宙といった電子デバイスを多用する成長産業のニュースもお届け。 ヒゲタ醤油は25日、加瀬泰美取締役の社長昇任を内定した。加瀬取締役はグループ会社のキッコーマン出身。戦後までの資本提携中にキッコーマンの茂木家が社長を務め、創業家以外の社長就任はそれ以来となる。業績回復と収益安定に導いた手腕が評価された。 (研究所はビジネスユニット上の階層をR&Dユニットと位置づけている)。 代表取締役社長. 日本ケミコンは、先進の機器を支える電子部品メーカーとして、市場からの大きな期待を感じています。 その期待に応えるべく、独自の技術を育て、提案力のある新製品開発に力を注いでいます。 日本郵船の歴代社長 初代:森岡昌純(1885年~1894年) 2代:吉川泰二郎(1894年~1895年) 3代:近藤廉平(1895年~1921年) 4代:伊東米治郎(1921年~1924年) 5代:白仁武(1924年~1929年) 6代:各務鎌吉(1929年~1935年) 7代:大谷登(1935年~1942年) 日本調剤の歴代社長 初代:三津原博(1980年~2019年6月) 2代:三津原庸介(2019年6月~ ) 日本調剤株式会社(にほんちょうざい)は調剤薬局事業を日本全国に展開する調剤薬局チェーン大手である 東日本旅客鉄道歴代社長 01代 1987年-1993年 住田正二 02代 1993年-2000年 松田昌士 03代 2000年-2006年 大塚陸毅 04代 2006年-2012年 清野智 05代 2012年-2018年 冨田哲 日本電子テクノサービスは、グローバル企業jeolグループの派遣/翻訳会社です。幅広いビジネスモデルをご提案しております。 社長執行役員: 松本 元春 担当:監査: 専務執行役員: 竹内 宏和: 統括:研究開発、プロセス技術、電子部品事業 研究開発本部長: 常務執行役員: 佐伯 彰久: 統括:ディスプレイ事業、薄膜事業 ディスプレイ事業本部長: 常務執行役員: 津田 幸一 株式会社アスコーテック. 理事: 多田 哲也. 日本電子計算の社員・元社員の口コミ(全5件)から、山田英司社長の魅力・評価を徹底分析!社長・代表・経営者としてのビジョンや理念、組織や従業員との距離感など、リアルな姿を豊富な口コミと評点で … 専務理事: 大滝 昌平. 日本電気株式会社(にっぽんでんき、英: NEC Corporation 、略称:NEC(エヌ・イー・シー)、旧英社名 Nippon Electric Company, Limited の略)は、東京都 港区 芝五丁目に本社を置く住友グループの電機メーカー。. 板橋精機株式会社. [52]。, 2017年5月、東京大学地震研究所とハンガリー科学アカデミー・ウィグナー物理学研究センターと「ミュオグラフィ」測定システムの共同開発を開始すると発表[54]。, 2017年12月、インドネシア共和国の気象気候地球物理庁より広域防災システムを受注[55]。, 2018年1月、イギリスのITサービス会社ノースゲート・パブリック・サービシズの買収を発表[56]。この買収により海外セーフティ事業を強化する。, また、地球観測衛星「ASNARO-2」の打ち上げに向け人工衛星の運用を独自で行う施設を新設し、製造から打ち上げ後の運用まで自社で行う初の国内メーカーとなった[57]。当「NEC衛星オペレーションセンター」における衛星の運用事業に加え、衛星画像データの販売事業にも参入する[58]。, 10月24日、サムスン電子と5G向け基地局の技術開発と営業で提携すると正式に発表した[59]。, 2019年3月1日、産業技術総合研究所と共同で量子コンピューターの研究室「NEC―産総研 量子活用テクノロジー連携研究室」を設立した[61]。, 4月24日、新ブランド「NEC Smart Connectivity」を立ち上げ、ネットワーク技術やソリューションを、IoT化を迎える新たな領域におけるサービス事業を展開すると発表した[62]。, 5月27日、ヘルスケア事業強化の一環として、がんなどの先進的免疫治療法に特化した創薬事業に本格参入したと発表した[63]。, 8月5日、新たな移動環境づくりを目指し、空飛ぶ車の試作機の浮上実験を公開した[64]。, 2011年度(平成23年度)の募集職種は、設計開発(ハードウェア、ソフトウェア)、システムエンジニア、営業、スタッフ(事業計画、経理、資材購買、人事、法務など)、研究開発。, 2009年(平成21年)には、同年度中に国内研究員の約15%(約150人)を製品開発や営業、SEなどの事業部門に異動させる方針と報じられている[65]。, 2018年(平成30年)1月30日 2020中長期計画にて、国内の間接部門やハードウェア事業領域で希望退職を募るなど3000人の構造改革を打ち出した[66]。, ※ 梶井剛の任期途中の1943年2月以降から社長を置く。それまでは専務がトップマネージメント。, 主要な製品・サービスは、コンピュータ、ソフトウェアパッケージおよびネットワーク・通信機器の生産/販売、またそれらを組み合わせたITサービス(コンピュータシステムの構築・インテグレーション)の提供である。, 2000年(平成12年)以降、事業の選択と集中が進み、半導体、パーソナルコンピュータの機器など、携帯電話、照明は分社化している。これらの製品は「#分社/子会社化した部門の製品」に記載する。, NECのパッケージソフトは、そのほとんどが企業システム向けである。特に、ミドルウェアに強い。下記ソフトウェア以外に業種(医療、製造業など)に特化したパッケージソフトの開発、販売も行っている。事業部ごとに企業向けパッケージソフトを販売しており、例えば医療ソリューション事業部では電子カルテの販売を行っている。, 大部分が社内カンパニー制時代はNECネットワークスの事業分野だが、AtermやスピークスなどはNECソリューションズの商品だった。, 無線・通信関係に関しては、かつて日本陸軍の無線・通信設備を一手に引き受けていた。陸軍の無線機は電力供給がままならない状況を想定していたため、日本の低い工業技術力を背景にしながらある程度実用になったことで知られている(特に軍用機用)。一方で、日本無線が独占していた日本海軍の無線機は通じないことで有名だった。, 超小型マイクロ波/ミリ波通信装置Pasolinkシリーズは、海外の主要オペレータを中心に販売を広げており、2007年度(平成19年度)から3年連続で世界シェア第1位を記録している。しかし2010年代半ばになると、中国の華為技術(ファーウェイ)が同様の製品で低価格攻勢をかけ、NECやスウェーデンのエリクソンのシェアは奪われている[79]。, 従来はテレビカメラからマスター機器、送信機器まで製作から送信まで一貫したラインナップを誇っていたが、現在は、テレビ局のテレビマスター装置(NECでは「APS装置」と呼ぶ)、CMバンクシステム、中継器及び送信機を製造しており、多くの放送局に納入実績がある。最近では、デジタル放送システムを納入している。また、ラジオマスター装置も製造している。, 独立U局系 TOKYO MX・テレ玉・チバテレ・tvk・群馬テレビ・とちぎテレビ・ぎふチャン[要出典], 1956年(昭和31年)に東京大学にロケット用テレメトリ送受信装置を納入したのが始まり。2001年に東芝航空宇宙システム事業部と日本電気宇宙開発事業部が各社から分離し、NEC東芝スペースシステムとして統合された。2007年に日本電気に再び宇宙システム事業部が新設されたため、NECスペーステクノロジーは主にサブシステムや搭載機器の開発や製造を担当している。, 市販製品や特注のハードウェア、ソフトウェアを組み合わせるシステムインテグレーションを行う。また、ロボットのシステムインテグレーション事業も行う[81]。主に以下の業界向けのソリューションサービスを提供している。, NECは1947年からマイクロ波通信用の半導体レーザーの研究に着手していた。1958年には新しい事業として半導体開発部がスタートした。1960年代には集積回路 (IC) の事業化へとこぎつけた[82]。1980年代には「日の丸半導体」の一角を担い、1980年代には多大な利益を上げていた(1985年から1991年まで売上世界首位[83])。しかし、東アジアにおいて日本製製造装置を輸入してメモリを製造するサムスンなどの韓国や台湾の半導体企業群の隆盛により、著しく価格が下落したことにより利益を上げることが難しくなった。状況の変化を受け、まずメモリ部門を2000年に日立製作所との合弁という形でNEC日立メモリとして分社、続いて集積回路部門も2002年にNECエレクトロニクスとして分社化した。いずれの企業もその後、経営危機に伴う出資比率の変更に伴い、NECの関連会社から離れることになった。半導体事業が斜陽化した点については、選択と集中を進められなかったことが原因として指摘されている[84]。, 2000年(平成12年)に日立製作所のメモリ関連事業部と統合し、新会社「エルピーダメモリ」に移行した。その後、エルピーダは外部から開発および工場更新の資金を調達し、三菱電機のメモリ事業部門を買収したため、NECの出資比率は日立などに次いで3位となった。こうして持分法の対象以下の比率となり、NECの関連会社からははずれることとなった。, 2013年7月31日には、マイクロン・テクノロジーからの増資を受け、エルピーダはマイクロンの完全子会社となり、2014年2月28日に「マイクロンメモリジャパン」と名称変更された。, 2001年(平成13年)1月に韓国のブラウン管メーカーサムスンSDI(旧・サムスンNEC)と合弁会社「サムスンNECモバイルディスプレイ」を同国に設立して、NECエレクトロンデバイスが保有するカラー有機ELディスプレイ技術と基本特許、日本内の事業拠点などを共有。NECは2004年(平成16年)に有機ELなどの次世代ディスプレイ事業から撤退を決め、有機EL特許と合弁会社の全株式をサムスンに譲渡している[86][87]。元合弁会社はその後「サムスンOLED」→「サムスンモバイルディスプレイ」となって、2012年からはサムスン電子のS-LCDと統合され「サムスンディスプレイ」の有機EL事業部になっている。, コンデンサ、リレー、RFIDタグ・リーダ/ライタ、各種センサ等のデバイス製品を生産しているNECの子会社だったが、2017年4月19日にKEMET Corporationへと売却された。, 1989年(平成元年)に発足したカラー液晶推進開発本部(後に事業部)の分社型会社分割により、2003年(平成15年)4月1日にNEC液晶テクノロジーを設立する。この会社は液晶ディスプレイ事業を担う。2011年(平成23年)2月25日、NEC液晶テクノロジーの株式の70%を中国の液晶大手である天馬微電子のグループに売却すると発表した[88]。, 2011年(平成23年)7月1日、NECと深圳中航光電子との合弁企業となり、NLTテクノロジーへと商号を変更した。2016年(平成28年)には天馬微電子の完全子会社となり、2017年(平成29年)7月1日、Tianma Japanへと商号変更している。, 2006年(平成18年)7月3日に、NECの一部門だったBIGLOBE事業本部をNECビッグローブとして分離、独立させた。, 2014年3月末にNECは保有していた株式を日本産業パートナーズに売却し、4月1日付で当社はNECグループを離脱するとともに、社名を「ビッグローブ」に変更した。, 1950年(昭和25年)に日本電気のラジオ事業部で蛍光ランプを試作したのが始まり、清算された日本電気ホームエレクトロニクスから引き継いだ事業。1970年代にはアメリカの管球・照明器具メーカー、シルバニア(現在はオスラム傘下)との合弁会社「日本電気シルバニア株式会社」が展開していた。 社長就任後、初めて中間決算発表に登壇した。(出所:トヨタが配信した動画を日経クロステックがキャプチャー), 営業利益を期初の5000億円から1兆3000億円に引き上げた。コロナ禍にありながら業績を急回復させ、再び成長軌道に向かっている。(出所:トヨタ自動車), トヨタ車の品質が疑われ、豊田氏は米下院公聴会にまで招致される事態となった。(出所:トヨタ自動車), 視聴無料の夕方セミナー「DIGITAL Foresight 2020-2021 winter」開催中!. 理事: 佐々木 猶裕. 大日本印刷の北島義俊氏の自宅は東京都新宿区の大豪邸、北島義斉氏の自宅は新宿区の立派な邸宅です。 歴代社長 佐久間貞一 昌平坂学問所 保田久成 昌平坂学問所 増田義一 東京専門学校(早稲田大学) 北島織衛 東京帝国大学 北 代表取締役社長. 日本碍子の歴代社長 ... がいし・セラミックス・電子 ... 東洋陶器(現・toto)や日本碍子の社長、伊奈製陶株式会社会長も務めた。東京日本橋生まれ、慶應義塾幼稚舎に学び、1894年慶應義塾本科を卒業。 パン・パシフィック・インターナショナルホールディングス(ppih)が6年ぶりとなる社長交代を発表した。「ドン・キホーテ」の成長を導いた大原孝治社長の後任に9月25日付で非営業部門出身の吉田直樹専務が就く。ppihの歴代社長を「スーパーマン」と評する吉田氏。 Copyright © Nikkei Business Publications, Inc. All Rights Reserved. これからの日本に必要な経営者像を映し出す──。フォーブス ジャパンが「ceoランキング2017」で重視したのは、「企業の長期的価値への貢献」というリーダー像だ。フォーブス ジャパン編集部は「日本を動かす経営者」を数多く生み出すという方針のも ソニー株式会社( Sony Corporation )は、日本の東京都 港区に本社を置く、多国籍コングロマリット。 世界首位のCMOSイメージセンサ などのハードウェア分野をはじめ、映画・音楽などのソフトウェア分野、およびハード・ソフト・サービスを横断する家庭用ゲーム機分野 に重点を置いている 。 異例の会見だった。トヨタ自動車が2020年11月6日にオンラインで開催した2020年度(2021年3月期) 第2四半期決算(中間決算)発表のことだ。通常は期末にしか姿を見せない豊田章男社長が、社長就任後に初めて中間決算発表の説明会で登壇したのだ。依然、新型コロナ禍の緊急事態下にあるため、トップ自ら説明する形をとったのだという。, コロナ禍にありながら、トヨタ自動車の業績は急回復している。営業利益は5199億円と前年同期と比べると半分以下(前年同期マイナス8792億円)だが、期初に打ち出した5000億円の営業利益の目標を上半期の段階で超えた。下半期の販売台数は前年同期を超える見込みだ。すなわち、同社の業績はわずか半年で新型コロナ禍を克服する勢いを見せている。, 質疑応答では、どういうわけか報道関係者ではないトヨタ自動車の大口株主という社長が質問に立ち、中間決算の結果と共に豊田氏を絶賛した。これを受けた豊田氏の口から興味深い言葉が漏れた。「私はあまりメディアを中心に評価されていない。その意味で、ちょっとくすぐったいほどの評価だ」と。日本の経済に与えるトヨタ自動車の影響力は極めて大きいため、歴代トップの動向は常にメディアの注目の的となってきた。だが、同氏の評価が割れる点を、筆者はかねて不思議に感じていた。, 2009年1月、トヨタ自動車は社長交代を発表し、豊田章男氏はトヨタ自動車のトップに上り詰めた(同年6月に第11代社長に就任)。同社会長で第9代社長だった張富士夫氏が太鼓判を押す横で、豊田氏は口を真一文字に結んで緊張した面持ちだった記憶がある。このとき、トヨタ自動車はリーマン・ショックの直撃を受けて、まさに底なしの業績悪化に苦しんでいた。結果、同社は2008年度に4610億円もの営業赤字に沈み、社長交代の人事に至った。, メディアの扱いはさまざまだった。第10代社長の渡辺捷昭氏の引責辞任と受け取ったメディアもあれば、3代続いた“外様社長”を経て、創業家出身の社長に戻ったとして「大政奉還」と報じるメディアもあった。トヨタ自動車はその3代の社長(第8代社長の奥田碩氏、張氏、渡辺氏)時代、ハイブリッド車の立ち上げや本格的なグローバル化を押し進めるなど拡大路線をひた走り、総じて好業績だったこともあってメディアの評価が高かった。その分、豊田章男社長の誕生を、自身が振り返るように「お手並み拝見」と見る向きが多かったのは事実だ。, 筆者は「旗を豊田家に戻したのだな」と捉えた。リーマン・ショックによる世界同時不況という未曽有の危機を乗り越えるには、社員のベクトルをそろえる力を一層強化する必要がある。それには豊田家出身の社長が適任だと当時の経営陣は考えたのだろうと。また、脇を固める副社長が優秀なブレーンとして社長を支えていけばよいのではないかとも考えた。かつてトヨタ自動車における豊田家の意味を聞かれた奥田氏が、「豊田家は旗だ」と回答していた影響もある。, この会見で鮮明に覚えているのは、豊田氏の次の言葉だ。「豊田の姓に生まれたことについて、私には選択肢がなかった」──。世間には創業家生まれの人をうらやむ見方も、世襲人事だと揶揄(やゆ)する声もあるだろう。正直に言って、筆者も実力や成果というよりも世襲の要素が大きいと思っていた。, それから11年が経過した今、豊田氏を一言で表現するなら「危機に強い社長」と言えるだろう。品質問題や自然災害が立て続けにトヨタ自動車を襲い、それらを一つひとつ乗り越えてきたからだ。, まず、社長就任直後の2009~10年に大規模リコール問題に直面。フロアマットにアクセルペダルが引っ掛かる、アクセルペダルが戻りにくい、ハイブリッド車のブレーキが利きにくい(違和感)といった品質不具合が連続して発覚し、世界で合計約1100万台ものリコールを余儀なくされた。豊田氏は米下院公聴会にまで招致され、そこでの発言次第では社長失格の烙印(らくいん)まで押されかねないほどの危機に陥った。, それでも、何とか乗り切った。証言台に立って語った「全てのトヨタ車には私の名前が入っている」「全ての責任を私が負う」という豊田氏の言葉が、米国当局が追及の矛を収めるのに利いたと言われている。誰かに責任を転嫁することも言い訳することもせず、創業家出身の社長として批判を一身に浴びたことが事態を好転させたのだ。, 社長就任3年目の2011年には、東日本大震災が発生した。サプライチェーン(部品供給網)が寸断され、中でもルネサスエレクトロニクスの那珂工場(茨城県ひたちなか市)の被災により、集中購買していた車載用マイコンが手に入らなくなった。同年の後半にはタイの大洪水により、トヨタ自動車の工場が被災するとともに、ここでもサプライチェーンが寸断。タイだけではなく、インドネシアやフィリピン、日本、米国、南アフリカにまで影響が広がり、世界各国の工場で稼働レベルの調整を強いられた。, そして、現在進行形の危機であるコロナ禍だ。世界経済が混乱状態に陥り、日本でも多くの企業が「とても業績予想を計上できない」と音を上げる中、豊田氏は2019年度(2020年3月期)通期の決算発表の席で「私は非常に落ち着いている」と発言し、社内外の動揺を抑えた。その上で、落ち着いている根拠や回復へ向かうための基準を示すべく、経理担当者に黒字目標(既述の営業利益5000億円)の発表を命じた。そして今、トヨタ自動車は豊田氏の指揮の下、世界の自動車メーカーの中で先陣を切って回復軌道を進んでいる。, 振り返ると、これらの危機をトヨタ自動車が乗り越えられた鍵は、「全ての責任を私が負う」という豊田氏の言葉だったのではないだろうか。危機のまっただ中にある現場では、普段以上に即断・即決が求められる。いくら権限委譲を大胆に進めても、現場の一管理者が全責任を負うことなどとてもできないだろう。豊田氏から「全ての責任を自分が負う」と言われて任された人間は、安心できる上に意気に感じ、モチベーションを高めて事態に立ち向かえることだろう。いわゆる“サラリーマン社長”とでは説得力がまるで違う。, この記事は会員登録で続きをご覧いただけます。次ページでログインまたはお申し込みください。, 製造業の課題解決に役立つ人工知能(AI)の知識・ノウハウの実践的な解説書。ITビジネス向けではなく、製造業のAI活用に必要な統計的機械学習と深層学習(ディープラーニング)について体系的に説明。. 国分グループ低温専業卸のナックスは16日、21年1月1日付で相馬義比古社長に代わり、石橋逸平氏が代表取締役社長に就くトップ人事を発表した。石橋氏は現在、国分グループ本社の執行役員経営統括本部付部長と国分東北の社長を兼務する。相馬社長は取締役会長に退く。 日本航空電子工業株式会社 Japan Aviation Electronics Industry, Limited 創業 1953年8月20日(昭和28年) 沿革 本社所在地 東京都渋谷区道玄坂1-21-1 本社/国内拠点 代表取締役社長 小野原 勉 役員一覧 資本金 106億90百万円 株式 東京証券取引所市場第一部上場 証券コード 6807 日本電産の歴代社長 初代:永守重信(創業者) 2代:吉本浩之(2018年6月~2020年3月) 3代:関潤(2020年4月~ ) 日本電産株式会社(にほんでんさん)は、京都府に本社を置く日本の電気機器製造会 … パン・パシフィック・インターナショナルホールディングス(ppih)が6年ぶりとなる社長交代を発表した。「ドン・キホーテ」の成長を導いた大原孝治社長の後任に9月25日付で非営業部門出身の吉田直樹専務が就く。ppihの歴代社長を「スーパーマン」と評する吉田氏。 日本の経営者。株式会社日本経済新聞社社長を歴任。社団法人日本新聞協会副会長。日経産業新聞、日経MJ、日経金融新聞、日経ヴェリタス代表者。「日本経済新聞電子版」(Web刊)の創刊者。1946年11月16日生まれ。奈良県吉野郡大淀町出身。 2019年9月に日本法人社長から米本社の副社長に転じた。世界で30万社超ある販売代理店など「パートナー」との連携戦略を練る。巨大企業の経営幹部となった今、日本の行く末に危機感を隠さない。(聞き手は 本誌編集長 東 昌樹) 代表取締役社長. 日本経済新聞の電子版。日経や日経BPの提供する経済、企業、国際、政治、マーケット、情報・通信、社会など各分野のニュース。ビジネス、マネー、it、スポーツ、住宅、キャリアなどの専門情報も満載。 30万人を突破した日本で学ぶ外国人留学生。異能人材を日本が活かすためには何が必要なのかについて、杉並区立和田中学校の元校長で教育改革実践家の藤原和博氏と亜細亜大学の九門大士教授が対談した。今回のテーマは社長よりもカッコいい存在とは何か。 日本郵政の歴代社長で問題を起こしている人は片足を棺桶に突っ込んだような「実力者」が多い。 最後の仕事で、自分の好きなようにやっている。 不正やモラルの低下が起こるのは当然と思える。 歴代代表執行約社長 2006年1月、西川 善文氏が初代日本郵政代表執行役社長。 日本航空株式会社代表取締役社長、操縦士。1952年9月16日生まれ。京都府出身。慶應義塾大学法学部を1年で中退後、航空大学校に入学。1975年に航空大学校を卒業し、操縦士として日本航空に入社。2012年2月、代表取締役社長に就任。 歴代社長の中では珍しい数学科の出身です。なぜ生命保険会社に入ろうと思ったのですか。 本当は大学でずっと研究をして一生を終えるのが希望だったんですけど、大学院に入る試験に落ちてしまって。 現在ランプ類を製造している水口工場は全国でも有数の規模を誇る管球工場であり一般ユーザー向け商品(下記の2製品が代表例)のほか特殊用途向け蛍光ランプのOEM生産も比率が高くなっている。, 2019年4月に日本みらいキャピタル(東京・千代田)が出資するホタルクスに事業を譲渡[89]。, 2011年(平成23年)1月27日、NECパーソナルプロダクツのPC事業を分社化し、レノボとともに「レノボNECホールディングス (Lenovo NEC Holding B.V.)」という持株会社を設立すると発表した。NEC 49%、レノボ 51%の出資比率で同年7月1日に発足し、その100%子会社として、NECパーソナルプロダクツのPC事業を分離した新会社NECパーソナルコンピュータおよび既存のレノボ・ジャパンが独立して設置された[90]。こうして、長らくNECおよびその関連企業によって行われてきたPCの製造は、NECパーソナルコンピュータに移管された[91]。ただし、国内市場では引き続きNECブランドのPCが製造販売され、個人向け(VALUESTAR・LaVie)および企業向け(Mate・VersaPro)についてはNECパーソナルコンピュータが製造、日本電気(NEC)本体が販売を担っている。レノボとともにNECのブランドも残る。しかしながらこの合弁は、NECにとっては実質的なパソコン事業の売却であるとも理解され[71]、統合から5年後に、レノボ側が合弁会社の全株式取得権をNECの同意があれば行使できる事が明らかにされた[92]。, その後、2014年10月7日にNECとレノボは事業統合契約を更新し、従来「2016年の時点でレノボが全株式取得が可能」とされていた点については、期限を2018年までに延長した上で以降は2026年まで自動更新されることとなり、かつレノボがNECの保有する株式を買い取って出資比率を66.6%まで引き上げる(NEC側は議決権を確保可能な33.4%)ことを可能とする条項が追加された[93]。2016年7月1日、NECはこの条項に沿って自社の持つ普通株式の9割をレノボに譲渡し、代わりに新たに発行される劣後株式を引き受けることで、議決権確保可能な33.4%まで出資比率を引き下げることを発表した[94][95]。この譲渡に伴いNECは200億円の売却益を2017年3月期に計上した[94]。売却益は社会インフラ部門への投資に使われるのではないかと報じられている[95]。, 2017年11月、富士通および富士通クライアントコンピューティングがレノボと合弁会社を立ち上げることを正式発表した際は同様の体制をとるNECとの競合を懸念する声があがったが、NECは「NECの強みである顔認証技術などで差別化できる」とする見解を示した[96]。, 社内カンパニー制時代はNECネットワークスに属していた。NECネットワークス唯一の一般向け事業分野でもあった。, ほとんどNTTドコモ向けだが、SoftBankにも旧デジタルフォン・デジタルツーカー時代から端末を提供していた。また、かつてはツーカーグループ・DDIセルラーグループ(のちのau(KDDI / 沖縄セルラー電話))にも供給していたこともあった。日本における折たたみ(二つ折り)式端末のパイオニアで、2001年のNTTドコモ503iシリーズでN503iが流行したことから他社も折畳化するきっかけとなり、2000年代前半はトップシェアを誇った。, また、NECとパナソニック モバイルコミュニケーションズ(松下通信工業)は、第三世代携帯電話向けの端末・技術を共同で開発していた。, なお、ドコモ向けのデータ通信用端末は日本電気本体が手がけていたが、ウィルコムとイー・モバイル向けデータ通信用端末はNECインフロンティアが、UQコミュニケーションズ向けデータ通信用端末はNECアクセステクニカがそれぞれ手がけている。, 2010年(平成22年)より、カシオ計算機と日立製作所の合弁会社カシオ日立モバイルコミュニケーションズと経営統合し、携帯電話端末事業はNECカシオ モバイルコミュニケーションズとして統合された(実際の移行スキームは、NEC本体からの部門譲受が同年5月1日付、次いで同年6月1日付でカシオ日立を吸収合併し、以降のカシオブランド端末の販売開始と同時に、日立ブランドを含む保守部門を継承)。統合後もNECブランドとして携帯電話を供給する。, 2013年7月に、スマートフォンの新規開発を中止し在庫分のみを以って販売を終了した[97]。ただし、スマートフォンの修理等の保守業務、およびフィーチャーフォン(従来型携帯電話)の開発、製造、販売は継続している。, さらに2013年12月には、カシオと日立が保有する全株式をNECが買い取ることが発表され、NECの完全子会社に戻った[98]。2014年10月1日にNECモバイルコミュニケーションズに商号変更している。, しかし2015年12月25日、同社の携帯電話端末事業を2016年3月1日付で親会社のNECに事業譲渡することを発表した。これまでの同事業の段階的縮小に伴い「独立会社として運営するには非効率な事業規模となった」ことを踏まえての決定と説明している[99][100]。, そして2016年2月29日、NECはNECモバイルコミュニケーションズを同年3月24日付で解散・NEC本体に回帰するとともに同社に対する1012億円の債権を放棄することを発表した[47]。, NECの組織は論理的にはビジネスユニット-事業本部-事業部の階層構造をとっている 歴代社長の中では珍しい数学科の出身です。なぜ生命保険会社に入ろうと思ったのですか。 本当は大学でずっと研究をして一生を終えるのが希望だったんですけど、大学院に入る試験に落ちてしまって。 社名(商号) 日本電子株式会社 (JEOL Ltd.) 設立年月日: 1949年5月30日: 本社所在地 〒196-8558 東京都昭島市武蔵野3丁目1番2号 日本電気株式会社(にっぽんでんき、英: NEC Corporation、略称:NEC(エヌ・イー・シー)、旧英社名 Nippon Electric Company, Limited の略)は、東京都港区芝五丁目に本社を置く住友グループの電機メーカー。, 日電(にちでん)と略されることも稀にある[9] が、一般的には略称の『NEC』が使われ、ロゴマークや関連会社の名前などにも「NEC」が用いられている。電機業界や社内での隠語として、日本電気を「三田」と言うことがある。, なお、住友電気工業と兄弟会社で、同社及び住友商事とともに住友新御三家の一角であるが、住友の象徴である井桁マークは使用していない。, 有線・無線通信機器(IP電話網、携帯電話基地局、テレビジョン放送設備、都市・交通無線、鉄道無線、船舶無線、航空無線、自動車通信、宇宙通信等)、コンピュータ(IAサーバ、UNIXサーバからメインフレーム、スーパーコンピュータまで)およびITサービス(システムインテグレーション)を主力事業としている。, インフォメーション・テクノロジー (IT) とネットワーク(NW)さらにはITとオペレーショナル・テクノロジー(OT)の融合を掲げ、サーバやミドルウェアなどのクラウドコンピューティング基盤、IoTのためのエッジコンピューティング基盤、NGNやSDNなどの通信ネットワーク、スマートグリッドなどのエネルギーネットワーク、社会ソリューション向け人工知能 (AI)、ビッグデータアナリティクスやサイバーセキュリティ、さらに近年ではFinTech(ブロックチェーン開発)や自動運転技術にも力を入れている。, 日本のマイコン、パーソナルコンピュータ市場では黎明期より手がけ、1976年(昭和51年)のTK-80のリリースで、日本のマイコン市場の活性化に努めた。国内で「NEC」というブランドで親しまれているものにパーソナルコンピュータ(PC)があったが、2000年以降は個人消費者向け製品から法人向け製品や社会インフラ製品へ注力するよう事業改革が進められた。, 「海底から宇宙まで」、ICTを活用した社会インフラの高度化を掲げる国内外の社会インフラ事業では、局用交換機、衛星地上局、マイクロ波通信設備、光海底ケーブル、放送送信機などの通信装置や生体認証システムやNシステムのような監視システムなどのセキュリティシステムの構築実績を持つ。政府開発援助を活用し、新興国を中心にICTインフラの構築を手がけてきた。, アフリカとは1963年より取引があり、これまでアフリカ大陸の40カ国以上に、マイクロ波通信システムを納入した[10]。また、アジアの主要空港向けに、生体認証技術を活用した安全で確実な出入国審査を実現する電子パスポートシステムを提供している[11]。現地法人のある南アフリカでは、指紋認証による7千万人規模の国民IDシステムを構築した。, 2019年現在、サーバ分野で富士通に次ぎ国内二位[12] である。メインフレームは現存する国内3社、世界6社のうちの1社である。また、ベクトル型スーパーコンピュータを製造する世界で現存する唯一のメーカーである[13][14]。, 通信設備では国内首位であり、通信衛星から光通信など様々な設備を販売している。PASOLINKブランドは、小型の固定無線伝送装置で世界トップのシェアを持つ[15]。ネットワーク機器関連の製品ではUNIVERGEブランドが代表的な製品である。IoT/M2Mソリューションの製品にはCONNEXIVEがある。, また、人工知能を活用した画像認識[17] や自然言語認識[18] 技術に強みを持ち、顔認識システムNeoFaceは国立標準技術研究所が主催する顔認証ベンチマークにおいて三回連続でスピード・精度ともに世界一を獲得している[19]。顔、虹彩、指紋・掌紋、指静脈、声、耳音響の6つの生体認証技術はBio-Idiomというブランドでサービス展開されている[20]。, これらの製品・サービスの国際市場への販売にも力を入れているとともに、海外メーカーなどの通信機器、コンピュータ、ソフトウェアも販売している。ただし、ハードウェア単体の販売や売り切りのSI受託開発から、継続的なサービスの販売や生体認証と人工知能をコアとしたITプラットフォームビジネスモデルへと構造改革を進めている。, ブランドステートメントは「Orchestrating a brighter world」である[21]。, 1899年(明治32年)7月17日設立。岩垂邦彦と米国ウェスタン・エレクトリック(現在のアルカテル・ルーセントの前身)が54%を出資する日米合弁会社であった。ウェスタン・エレクトリックは当初沖電機工場(現・沖電気工業)を合弁先に交渉したが、沖電機工場の沖牙太郎との間で条件がまとまらず成立しなかった[22]。このため、ウェスタン・エレクトリックの代理人として交渉に当たっていた岩垂が自ら会社を興して提携相手となった。これは日本最初の合弁企業の事例とされる(1992年まで使用されていたNECのロゴタイプはウ社の当時のロゴに由来している)。, 戦前は、電話交換機などの通信機器の製造を主な事業としていた。1928年(昭和3年)に日本電気の丹羽保次郎、小林正次らが昭和天皇の即位大礼の写真のファクシミリ通信を成功させた業績で知られる。, その後、住友財閥に経営委託され、第二次世界大戦で日米関係が悪化すると住友グループ傘下となった。このため、1943年(昭和18年)から1945年(昭和20年)までのごく一時期であるが「住友通信工業」という社名を名乗っていた(住友電気工業が当時既に存在していたためこの社名になったようである)。大戦期は陸軍の無線機を一手に引き受け、電波警戒機の開発も行っていた。, 戦後は、通信関係や真空管や半導体など電子部品の製造のほか、子会社「新日本電気」(のちの日本電気ホームエレクトロニクス、現在は清算)により家電・無線通信機器分野に進出した。また、1958年(昭和33年)のNEAC 1101からコンピュータの開発にも取り組み始めた。, 1960年代より、マイクロ波通信装置を中心とする通信機器の海外輸出に積極的に取り組み始めた。, 1966年、日本板硝子と共に世界最初期の自己収束型光ファイバー「セルフォック」を開発。1970年代にはマイクロ波通信や光ファイバー通信用の半導体レーザーの量産化でも世界をリードする[23]。, 1970年(昭和45年)には、日本初の人工衛星である「おおすみ」を製造し、運用に成功する。, 1977年(昭和52年)に、当時会長であった小林宏治によって「コンピュータと通信の融合」をうたった「C&C」(Computer & Communicationの略)のスローガンが提唱され、新たな企業理念となる。これ以降、それまで「電電ファミリー」(例えば電話交換機では富士通と並び大手の一角と言われた)というイメージの強かったNECは、情報・通信系を中心とした総合電機メーカーへと変貌を遂げる。, 1982年(昭和57年)に発売された「PC-9800シリーズ」は、約15年間にわたって日本のパソコン市場を席巻し、全盛期には「国民機」とまで呼ばれるようになった。, C&Cの理念は小林の実質的な後継社長であった関本忠弘の時代にも引き継がれ、上記のPC-9800シリーズによる国内PCの圧倒的シェアに加え、1985年にはスーパーコンピュータSX-2が世界最速となり、1980年代後半には半導体生産で世界一位となるなど、日本を代表するエレクトロニクス企業へと成長した。コンピュータ系の事業部門においては、富士通の池田敏雄と並ぶ日本の情報処理分野の生みの父とされる水野幸男などが、汎用機や関本の好む大型技術案件だけに集中しがちなNEC自体の傾向を補正し、PCやUNIXなどの当時の次世代技術に他ベンダよりいち早く投資を続ける事により発展してきたという側面も大きい。, NECを含めた日本企業の国際半導体市場進出は、「日の丸半導体」と呼ばれ、日米半導体貿易摩擦問題として政治問題化するまでになった。プラザ合意(1985年)後の急速な円高や、1986年から1996年まで続いた「日米半導体協定」[24] の影響により海外競争力は衰えることとなった[25][26]。, この間、1983年(昭和58年)には、英文社名を現在のものに変更している。1990年(平成2年)には、創業以来の地に現在の本社ビルであるNECスーパータワーが建設された(建設中は森永製菓本社がある森永プラザビルを間借りしていた)。さらに、1992年(平成4年)には、CI刷新により、現在の青色のNECマークとロゴに変更した。このロゴの使用を開始した1992年(平成4年)以降、対外的には「NEC」を通称とするようになっている。, 1990年代後半に至り、国内PC市場でのPC/AT互換機対応の遅れ、海外PC市場進出をめざし買収したパッカードベル社の不振、半導体市場での米国・韓国勢との競争激化といった要因により業績の勢いにかげりが見えた矢先、1998年(平成10年)には防衛庁調達における価格水増し疑惑が発覚し、企業イメージを損なうこととなった。この責任を取る形で関本は会長を退き、社長も金子尚志から西垣浩司へと交代した。, 西垣社長体制下において、不採算事業のリストラとガバナンス強化施策に従い、家電分野から撤退した。1999年(平成11年)12月には、DRAM事業部門を分社化し、NEC日立メモリ(エルピーダメモリに改称後、会社更生法適用により、現・マイクロンメモリジャパン)を設立する。また、2000年(平成12年)4月には、社内カンパニーとしてNECソリューションズ・NECネットワークス・NECエレクトロンデバイスを設立したが、2002年(平成14年)11月に半導体関連部門のNECエレクトロンデバイスをNECエレクトロニクス(現・ルネサスエレクトロニクス)として分社化、カンパニー制自体も導入からわずか3年後の2003年(平成15年)4月に金杉社長体制において廃止された。総合電機メーカーとしての暖簾を下ろし、C&Cコンセプトに立ち戻り、コンピュータシステム及び通信を中心とした電機メーカーへ転換した。, 2001年(平成13年)、創立100周年記念事業として、玉川事業場の一部を高層ビル群に建て替えた(NEC玉川ルネッサンスシティ)。年間の売上が5兆4097億円と過去最大に達した(2016年度の二倍以上)[27]。, 2002年(平成14年)には、「地球シミュレータ」を完成させ、日米スパコン貿易摩擦以降初めてスーパーコンピュータの世界最速を記録し、コンピュートニク・ショックとも呼ばれた。, 2004年(平成16年)11月、アビームコンサルティングと業務提携し、グループに加えることで、ビジネスコンサルティングとITサービスを強化する。, また、通信ネットワークのインターネット化・IP化を進め、次世代電話網のNGN (Next Generation Network) に関しては、IT/NW機器業界では一番早くから対応を進めている[28]。, 1988年よりNASDAQに米国預託証券(ADR)を上場していたが[29]、米国の監査法人から求められていた保守・サポートサービスと製品が一体になった「複合契約」の収益分析が完了しなかったため、上場維持に必要なSECに対する2006年3月期の年次報告書を提出できず、2007年10月に上場を廃止した[30]。その後、SECとの間では2008年6月に和解が成立した[31]。また、この関連で2006年の中間決算より、日本国内向けの財務諸表の作成基準を従来の米国基準から日本基準に変更している。, 2007年(平成19年)4月、日産自動車とともに自動車アプリケーション用リチウムイオン電池の開発を行うオートモーティブエナジーサプライを設立した。2010年にはリチウムイオン電池専門のNECエナジーデバイスを設立(2017年に両社ともに株式を売却する方針と発表[32]、2019年3月売却予定[33])。, 2010年(平成22年)、6月13日、NEC東芝スペースシステムが主製造業者として製造した「はやぶさ」が世界初の地球重力圏外にある天体からのサンプルリターンに成功して地球に帰還する。, 同年、携帯電話事業を分社化し、NECカシオ モバイルコミュニケーションズ(後にNECモバイルコミュニケーションズに改称)を設立する。また半導体子会社のNECエレクトロニクスはルネサス テクノロジと合併しルネサス エレクトロニクスとなった。, 2011年(平成23年)1月27日、80年代から国内シェア首位のPC事業を分社化し、世界シェア4位のレノボとともに合弁会社を設立すると発表した。これにより国内最大手のPC事業グループが誕生した[34]。, これらの統合による規模のメリットによって、パーソナルプロダクトのコストダウンやシェア拡大を目指す一方で、成長市場であるクラウドやスマートグリッドなどのビジネス・社会インフラ関係の分野での事業創出を図っている[35]。, また、SDN (Software Defined Network) を実現するOpenFlow技術を世界で初めて製品化したUNIVERGE PFシリーズを発売する[36]。, 同年、東京国税局の税務調査で、海外の携帯電話事業からの撤退に絡んで要求され支払った補償金などが交際費と認定され、約100億円分の所得隠しを指摘されている[38]。, 2013年(平成25年)、SDN戦略本部を設立し[39]、世界で初めて通信キャリア向けネットワークのSDN仮想化ソリューションを発売する[40] など、SDNを新しい事業の柱として据えている[41]。, シンガポールにセキュリティ関連事業の拠点「グローバルセーフティ事業部 (GSD)」を設置[42]。, 2011年発売のMEDIASより参入していたスマートフォン事業からの撤退を発表。フィーチャーフォンの開発は継続するが、2001年から2004年までの4年間トップを占めていた国内シェアは、2011年には7位まで落ち込んでいる[43]。パーソナル事業から社会インフラ事業へのシフトがますます鮮明となる。, 同年、アジア・アフリカ・ヨーロッパ間とアンゴラ・ブラジル間の2件の海底ケーブル敷設を受注している。後者については国際協力銀行・三井住友銀行・日本貿易保険の協調融資が活用される。, 2015年6月、ものづくりソリューションとして「NEC Industrial IoT」というサービスの提供を開始した[45]。, 2015年12月、1960年代より開発で先行し、常にトップグループを走り続けてきたオフィスコンピュータの製造より撤退[46]。同製品の市場規模の縮小により採算が悪くなった影響である。コンビニエンスストアやホテルなどの稼働中のバックオフィス用コンピュータは独占状態に近く、保守サポートは2023年まで継続する。, 2016年3月、フィーチャーフォンのみとなった携帯電話事業は、NECモバイルコミュニケーションズを解散する形で再びNEC本体直轄となった[47]。, 2016年4月、FinTech事業開発室を新設した[48]。また、大阪大学内に次世代コンピューターの基盤技術を開発する「NECブレイン・インスパイヤード・コンピューティング協働研究所」を設立した[49]。, 2016年6月、産業技術総合研究所と共同で「産総研‐NEC 人工知能連携研究室」を設立した[50]。, 2016年7月、人工知能技術を集結した「NEC the Wise」ブランドを策定した[51]。, 2016年12月、人工知能を活用したがん治療用ワクチンの開発を担う新会社「サイトリミック」を設立